山の手、下町と坂道の関係

東京は、じつは坂道の多い町です。

たとえば渋谷は、「谷」の字がつくだけあって、周囲には道玄坂、宮益坂など坂道が多くあります。

これら坂道の多くは、江戸時代以降につくられたものといわれています。

それ以前は、現在の東京都心部の西側は台地で、左側はガケのように切り立った低地になっていました。

この地形から、江戸幕府による町づくりが進むなか、ガケをなくすための土地の造成事業で、たくさんの坂道がつくられることになったのです。

そのため、東京の坂道の中には、江戸時代の名前をそのまま継承しているものが少なくありません。

段が9つあったことに由来するといわれる九段坂、神楽の音が聞こえてきたことからつけられたとされる神楽坂、坂上から芝浦の海辺を見渡すことができたことに由来するといわれる潮見坂……。

土地造成で十分な土地ができると、幕府は、四谷、青山、市ヶ谷といった、坂道の上の地域に大名や旗本の武家屋敷と寺社を集め、日本橋、浅草といった坂道の下には職人や商人を集めて住まわせました。

これは、身分秩序を明確にするための施策だったと考えられています。

東京の「山の手」と「下町」という区分は、このときにできあがったものです。

高田馬場駅の駅名の由来

東京の高田馬場駅はJR東日本、西武鉄道、東京メトロの駅で、東京都新宿区高田馬場1丁目にあります。

馬場といいますが、高田馬場駅の周辺に乗馬や流鏑馬など馬術競技の練習場などがあったわけではありません。

駅が完成したとき、高田馬場という駅名に地元の人の多くが反対していて、当時の地名から戸塚町駅や諏訪町駅、諏訪の森を駅名にしたいという声があったのですが、鉄道院(国鉄の前身)がなぜか強引に高田馬場駅という名前にしたそうです。

住民の反対を押し切って鉄道院がこの駅名にした理由についてはいくつかの説があります。

たとえば、赤穂浪士四十七士のひとりである堀部安兵衛(堀部武庸)の仇討ちがおこなわれた場所が高田馬場だったことに由来するという説です。

叔父の菅野六郎左衛門に助太刀して仇を数人切った安兵衛は、豪傑として知られています。

安兵衛の伝説となった高田馬場の決闘がおこなわれた場所として有名だったので、その高田馬場を駅名にし、知名度を高めようという目的です。

本来の高田馬場は新宿区西早稲田3丁目にあって、早稲田大学の西側に東西約650メートル、南北約60メートルの横長の地です。

江戸時代の高田馬場の決闘もその地で戦われたものです。

行政区画がまたがる場合の住所の決め方

区が隣り合う場合などのように、複数の行政区画にまたがっている建物がありますが、住所がどちらの行政区になるかはどんな基準で決まるのでしょうか?

商業施設の場合は、住居ではないので法務省が管轄となります。

地方税収入などの面で大きな影響を及ぼす大企業の建物などが複数の区画にまたがっている場合もあるので、取り決めも厳格だと思われましたが、意外とあいまいな決め方のようです。

面積の割合を基本としますが、営業上の利便性を踏まえて、事業拠点の位置がある場所も判断材料として決定していくそうです。

たとえばJR新宿駅は新宿区と渋谷区にまたがっていますが、駅長室のあるところという理由で住所は東京都新宿区です。

渋谷区と目黒区にまたがっている恵比寿ガーデンプレイスタワーの場合は、面積に関しては目黒区のほうがすこし多いのですが、メイン玄関がある位置が渋谷区だからという理由で東京都渋谷区の住所となったそうです。

個人住宅は総務省の管轄となり、自治体により住民税の金額や受けられる行政サービスが異なってくる場合もありますのでやはり重要な問題のはずですが、こちらも法律的な規定はなく、面積割合や生活拠点の位置という客観面と住民の意思を基に判断していくそうです。

午前と午後で一方通行が逆転する道路

東京・神楽坂にある神楽坂通りでは、「逆転式一方通行」が毎日行われています。

平日の午前中は坂を下る西から東への一方通行になり、午後は坂を登る東から西への一方通行になります。

こんなユニークな逆転式一方通行の導入例は他に確認されてなく、日本でここだけといわれています。

そして、このルールはある政治家のためにつくられたとの都市伝説があります。

誰かというと、元首相・田中角栄です。

田中角栄の居宅は神楽坂の北西部に位置する、目白にありました。

朝、目白邸から神楽坂を通って国会議事堂に向かい、夜に帰宅する際にも神楽坂経由で戻ります。

そのルートをスムーズに通行できるように、午前と午後で一方通行を逆転させたというのです。

しかし、事実ではないようです。

かつて神楽坂通りは双方向通行でした。

その後、歩道をつくった際に車道が狭くなってしまったため一方通行に変えましたが、今度は付近の道が渋滞するようになり、人々から多くのクレームが寄せられました。

そこで午前と午後で一方通行を逆転させることにしたらしいです。

事実、神楽坂では、午前中は都心に向かう通勤車両が多く、午後はその逆になります。

つまり、逆転一方通行は、理にかなったシステムということになります。

九十九里浜の長さが99里ないのは何故?

千葉県房総半島の東岸に位置する九十九里浜は太平洋に面していて、日本で一番長い浜です。

日本の白浜青松100選と渚百選に選定されている遠浅の美しい浜で、夏には海水浴が人気のスポットとなっています。

九十九里浜の長さを九十九里という名前から考えてみると、1里が約4㎞なので4×99で約396㎞になりそうです。

しかし、実際の長さは約66㎞なのです。

あまりにも違いすぎるので、1里が本当に約4㎞なのかという疑問もわいてきます。

じつは、かつて1里の長さは地方や測定する人により異なっていて、1里が約4㎞とされたのは豊臣秀吉の時代からで、定着したのが江戸時代、全国的に統一されたのが明治時代だそうです。

源頼朝が九十九里浜を測定することになり、6町で1里としました。

1町が約109mなので、6町だと654mあります。

頼朝は1里ごとに砂浜に矢を突き立てて測定しましたが、浜の端までで99本目となり、99里だということで九十九里浜という名前になったというわけです。

この伝説の真偽は不明ですが、一里は4㎞でなかったということが想像できます。

鎌倉の七里ガ浜でも九十九里浜と同じように、1里を4㎞として換算すると28㎞になるはずですが、実際の長さは約2.9㎞です。